「批判」とは

新年初めての記事は、Twitterで気になったリプライを掘り下げるところから。

いやあ、泥沼だ。此の期に及んでも僕は日本語が不得意である。

おまえ、日本語話してるだろ。


なぜリプライを放棄したか

話しているのは確かである。しかし、毎年勉強すればするほど「この言葉知らない」「すっきりまとまらない」という壁にぶち当たるのである。ぶち当たらない方々は幸せなのかも知れない。僕は140文字でリプライを返すのを放棄した。


何をどう放棄したのかわからんだろうがということで、その中身を紹介する。まあそのままがっつり引用はやめておくけど。

その中身というのが

「コメントするにあたって相手を傷つけるあるいは批判するものはダメではないか」

というものだ。


至極真っ当な意見だと思うという読者がいると思うし、そういう人の方が多いのかも知れない。「だったらあえてまとめて書く必要なんかないじゃないか、まるで悪口でも書いているみたいだ。」という怒鳴り声が聞えてきそう(実際には聞えてないのでご安心を)。


僕がいいたいのは、ちょっと言葉の意味をいろいろ掘り下げて考えてみようじゃないかということである。日本語だって、文脈によって同じ単語でも使っている意味が変わるものだろう。だからこそ、上の一文の言葉の意味をもう一度噛み砕いてみようということがいいたいのである。それを140文字で全部の作業をこなす(=言葉の意味の紹介から今の文脈への当てはめそして妥当性の検証までやれる)のは天才だと思う。僕は天才じゃないので、別に書くしかないのである。


コメント

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88-3477

でとりあえず調べてみたので引用。


大辞林 第三版の解説

コメント【comment】

( 名 ) スル

問題・事件などについての意見や見解を述べること。論評。解説。説明。 「 -を挟む」 「 -を求める」


解説・説明というと自分の意見(ポジション)を言うこととはやっぱり違うな…ということで、何らかその問題について触れること一般を指していると考えた方が良さそう。


批判

大辞林 第三版の解説

ひはん【批判】

( 名 ) スル

① 物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。 「学説-」 「 -を仰ぐ」

② 誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。 「政府の外交方針を-する」

③ 〘哲〙 〔ドイツ Kritik〕 人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。


多分読者が想定しそうなのは2番目。「ほら、あってるじゃないか!」という反論が飛んできそう。だけど、ここでは○×の思考様式から自由になって欲しいのである。

僕がここで注目したのは、2番目の意味「あげつらってる」というのがあって「あってましたね」ということではない。批判にはその2番目の意味も含めて3つくらい意味があるということだ。


特に3番目なんかは興味深い。日本語なのに呪文のように見える恐ろしい文章かも知れないが。専門的な分析をしないと厳密な正解にはならないのかもしれないが、ひとまず日常の場面を思い浮かべて僕なりに噛み砕いてみようと思う。いや、うまくいっているのかは読者が判断してもらうしかないのだけど。


まず、「人間の知識や思想・行為など」、うん「スマホだっていい写真撮れる」ある種の主張なんだけどこれに置き換えてみよう。まあ撮り鉄ならポリシーや価値観・「思想」に関わるものだろう。具体例としていれられそう。

次に、「意味内容の成立する基礎」だって…まあまた難しいこと書いてあるなあ。頭の悪い僕はもう頭が痛い。とりあえず「スマホだっていい写真撮れる」という例に基づけば、その主張が出てくる前提条件なんかを分析・理解することだろうね。

最後に「起源・妥当性・限界などを明らかに」とある。「スマホだっていい写真が撮れる」という例なら、その主張をいろいろ分析・理解することで「どっからそういう主張が出てくるのか」とか「その主張は妥当なのか」とかを解明することある。


ぐいっとまとめると、「妥当なのか」という問については当然「全面的に妥当」ということもあれば「一部妥当/場合によっては妥当」もあり得るし、ひとつの結論としては「全然妥当しません」ということもあるにはあるということだ。あくまでも結果論としてだけど。

より重要なのはその結果に至る過程である。批判するという営みは、「意味内容の成立する基礎を把握する」つまり、きちんと問題になっている主張などを分析して理解・解明することなのである。

ちなみに僕が念頭に置いていたのはこの意味である。



「批判」はダメなのか

というわけでしばしば見かける「批判してくるのは困る」の主張に僕なりコメントをしておきたいと思う。

くどいようだが、その主張を述べる人たちが「批判」をどのような意味で使っているかである。2番なのだろうか、あるいは3番なのだろうか。

2番というのであれば、一応何を想定していっているのかはわかる。質問箱に質問ではなく暴言や放言の類いで「写真が下手」といってくる輩もいるようだから。ただ、それはあくまでも「暴言」「放言」でくくるべき話だと僕は思う。批判は暴言や放言でないことは明らかなのだから。

ということで、僕としては2番の意味で使うのなら部分的には賛同するが、やはり「批判という言葉を使うのではなく暴言・放言と分類してきっちり正していくべきではないか」とはいっておきたい。

仮に3番の意味だったら、物事を分析・把握するというおおよそ真面目に真摯にやっているはずの行為が非難されることになるだろう。個人的にはこの意味で使っているのだとしたらほぼ賛成できないということになるとは思う。


とはいえ、僕も経験上真面目にコメントしようとすればするほど突っ込んだ内容になる傾向はある。該当する相手と突っ込んだやりとりくらいで吹き飛ばないとみられる関係が築けていない限りは真面目な批判コメントも2番のようなあるいは暴言や放言と受け取られかねないので控えているというのが現状ではある。必ずしもいいとは思わないけど。


まあ、このようなとらえ方が正しくないかもしれん…ということで、自分なりに読んで何か感じることがあれば僕としては記事執筆成功である。


「スマホだっていい写真が撮れる」

肝心の話について最後に一言。

大事なのはなにをもって「いい」といっているかである。

ぱっと見いい写真に見えるというレベルをもって良とするのか、細部まで拘って初めて良しとするのか、手ぶれさえしてなければ何でもいいのか…いろいろあり得る。

ぱっと見いい写真というのなら、僕は「スマホでもいい写真」に同意する。スマホは基本的に広角寄りのレンズを採用している。だから、日常撮影なら気軽に取り出せるし、一昔前のコンデジよりきれいかつ手ぶれ無しでとれてしまうことは実感している。

しかし、一眼やミラーレスが得意なこともある。

まずはぼけ表現。ピントが合わなかった箇所がボケるというもの。僕がこのところ頻繁にアップしている写真だ。なにがなんだかわからなくなるくらいのボケ味はレンズ交換をするカメラの得意分野である。逆に、周囲までピントを合わせるということも可能だ。

連写性能(1秒あたりのコマ数)は当然一眼やミラーレスの方が充実している(一応9000Dクラス以上ということにしておくけど)。

望遠に関しては、スマホに小道具をつける手もある。一眼やミラーレスでは望遠レンズで重たくなる傾向はある。ただ、望遠レンズでもボケ味を楽しむ・マクロ撮影をやるといった使い方もある。

このほかにも多様な写真を撮るならやっぱり一眼・ミラーレスが欲しいということにはなるだろうと思う。自分の感じたこと・思ったことも含めて納得の1枚を切り取る(ことをもって「いい」としたいのなら)なら将来的には一眼かミラーレスの導入を考えてもいいと思う。



僕もかつては「どうせ下手なのだから/予算も確保するの面倒」と一眼をあきらめていた。少なくとも5年以上はその調子だった。「ああやっぱり撮れてないなあ」とため息をついた回数もさることながら(それは腕にもよる)、何より「このシーンはどうせ撮れないからやめよう」というケースも何十回・何百回重ねてきていたのである。旅行自体は毎回少しずつプログラムの立て方が改善してきたのか中身としても満足できるものになってきてはいたが、こうしたケースでずっと歯がゆい思いを持ち続けていたのである。

特に、望遠では諦めるシーンが目立って多かった。自分のTwitterのアイコンも「こういうアングルから撮りたいけどなあ」というのもずっとあった。せっかくのお気に入りの編成なら自分の理想と思うカットを捕まえたい、それが最終的に重い腰をあげた理由である。

当初は、「望遠がそれなりにうつりがよくて撮れるようになればいいだろう」くらいに考えていた。11月のJR九州完結編の前に予算がそろった。最後はランチの予算すら削っていたけれど。それくらい欲しかったのである。9000Dと望遠キットレンズの組み合わせでは列車では以前は諦めたカットが次々に釣れる。当然大きな喜びだ。この時期の札幌は昼間でも本州の冬並みには寒いのだがその寒さも忘れられる。

これもよかったのだが、いざ九州へ行ってみると、スマホの時とは全く違うのである。「あれも被写体だよね。これもいけるかな?」が次々と出てくるのである。広角のキットレンズが活躍する。いざ撮影してみると、またこれが発色がいい。スマホよりもっと鮮やかだ(イルミネーションやライトアップが多かったので暖色が得意なCanonの特徴が出たのだろうけど)。

札幌に戻った。そういえば大通でクリスマス市がある。そこでまた一眼を取り出す。最新モデルということもあって、夜も安心。手ぶれ補正付のキットレンズだからなおさら。そしてCanonの発色。こんなにきれいなのかと思った僕は、年末まで時間を見つけてクリスマス市に通った。

ちょうどその頃、単焦点レンズのうわさを耳にする。50mm/F1.8だった。ただ僕の持っている機材だと80ミリ相当だから「これ、手ぶれ補正もないし本当に撮れるの?」内心かなり怪しげだなあくらいに思っていた(某氏に申し訳ないのだけど)。ただ、9000Dのためにそろえた予算は若干あまっており、新品のレンズ(といっても数万円程度のもの)を買うには足らなかったが、中古なら落とせる可能性があった。

そうすると、50ミリ単焦点の一番古いモデルが安売りされていた。まあ、使わないのなら中古で売ればいいし、気に入れば握っとけばいいという軽い気持ちでヤフオク落札。

届いた50ミリ単焦点は1987年のモデル。最初カメラにつけようとしたとき、ちょっとかたかったなあ。一瞬だまされたかと思った。まあヤフオクは半分博打みたいなもんだけどさ。でも、ちゃんと取り付けることが出来た。そして、カメラの設定画面に「F1.8」が現れた。

僕は再びクリスマス市に赴いた。確かに手ぶれ補正がないから、多少ぶれる。でも、コンデジ時代の何が映っているのかすらわからないようなひどいものじゃない。これなら少しずつ設定値やホールドを改善していけばある程度は防げる。何よりも驚いたのはボケ味。噂よりボケるという感じだった。

といわけで、クリスマス市に行く回数が増えたのは単焦点レンズのおかげである。キットレンズで撮影したカットの多くをやり直したくらいだ。単焦点レンズだけで札幌の町を歩いてみた。これがまた画角が固定されているせいで、それまでと違うものが被写体になる。いままで被写体になっていたものもまた違った表情にうつる。それを通じて僕の頭の中にも新しい記憶が刻まれていく。ここまでくるとスマホに戻ろうにも戻れないのである。

そしてJR完結編の旅に出た。これだけいろいろ撮れるならと僕は銀山温泉などを強引にルートに組み入れた。一眼レフを頑張って持ち出さないといけないのかあと心配していたのだが、逆に一眼レフにリードされているような感覚すらあった。

今年1月。ついに、自分の目指していたアイコンのカットをようやく撮影することが出来た。まだ改善したいことはあるのだけどそれはそれとしてである。スラント大雪もこのほど撮影することが出来た。

当然今でも写真は下手である。しかし、一眼レフで単にいろんな写真が撮れる以上に、自分の目で見た物が「何もかもが違く見える」のである。新鮮に見えるといってもいいかもしれないし、目の付け所が変わるといってもいい。単に写真を撮る以上にまた新しい楽しみを見つけていけるのだから、もっと前に買えば良かった、それが僕の答えである。ただ、それまで乗り鉄中心だったからこそ、この時点での投入は「満を持して、次の段階へ」という感じでそれはそれでよかったのだが。

最後に、このほど某家電量販店の店員さんと2時間以上の議論の末、レンズの追加は将来的に必要だという結論に至った。



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