2017年12月22日・札幌
日本列島って面積は大したことはないかもしれない。でも、広い。
*
僕は札幌に住んでいる。
例年「冬至」と呼ばれるこの日。本来この時期の札幌は雪が降り、空が暗い。東京なら僕の故郷の名古屋なら冬晴れが広がっているのだけど。それが珍しく東京や名古屋のように晴れた。コートを着て歩いていると暑い。気温もプラスだろうと思った。
この日、僕は朝の用事を終えて札幌駅へ足を向けていた。もう何度目の旅の始まりだろうか。それを数えるのをやめたのは…いやそもそも数えていなかったのかも知れないが…いつだろうか。旅のはじまりにもう「緊張感」はない。そして僕も20代も半ばにさしかかろうとしている。だから、子どもの時のようなあるいは10代のような「わくわく感」ももうない。
ところが「これからどんなめぐりあわせがあるのだろう」とは思う。20代に入ってから、偶然の巡り合わせに感動を覚えることは増えたように感じる。ちょっとしたことに温もりを見出すことも10代の頃はあまりなかったかもしれない。
それでも、軽い足取りで札幌駅に着いた。毎度おなじみの旅のスタートだと思う。
「そういえば、きっぷはまだ買ってない」
これもいつものことである。今日の予定はそんなに窮屈ではないことはわかってた。列車1本くらい乗り遅れたって困ることはない。
「いまからきっぷを買えばキハ281が充当される北斗10号には余裕で間に合うな」
そう結論した僕はトイレを済ませのんびりきっぷを揃えた。なにせあと1時間くらい時間があったのだから。
しかしこのときちょうど3年前からはじまった「旅」の終わりが迫っていた。
1章 はじまりの旅
2014年12月17日・札幌
この日は夜まで予定があった。予定を終えたのは午後9時を回っていただろうか。僕はいまから始めようとしていることに内心「怖がって」いた。
手元にあったのは、普通のサイズのリュックサック1つだけ。そのなかにはコンパス時刻表・1~2回分の着替えやタオル・防寒具・本数冊が入っていた。あとはきっぷと貴重品だけ。この装備だけで12日間連続で旅行しようというのである。それも新得~新夕張と木古内~蟹田以外は全て普通列車だけで乗り継いで名古屋まで行こうとしているのだ。
もちろんサバイバルになれている人間ならなんてことはないかもしれない。けれどその時僕は3ヶ月で4度も体調を崩し、12月に入ってからは熱を2回も出すという体たらくだった。正直言って完全にはなおってない。どこか「なんか調子悪いよな」って状態でのスタートだ。この年いろいろあったとはいえ、これでスタートなんて本当に大丈夫なんだろうか。
北海道での冬はこれが初めてではなかった。逆に、初めてじゃないからこその不安がある。それは「うっかり汗をかいたときは致命的に冷える」ということ。これにはまるとまた体調不良がぶり返すかも知れない。もちろん雪害で鉄道が止まることだってあり得る。
非日常に踏み出せるというちょっとした喜びも交錯していたけれど、12日間なんて組んだこともなかった。いままで組んだことがあったのはせいぜい2泊3日か3泊4日、それもホテルは1箇所に定めて必ず帰ってくるというやり方だった。今回は毎回宿泊場所が全て異なる。
それでも、北日本&東日本パスで改札へ入った。最初に乗ったのは721系で苫小牧行きだった。札幌の町は出発してしばらくすると暗闇の中へ消えていった。
*
翌日僕は午前5時半には起きていた。苫小牧に着いたのは昨夜11時は過ぎていた。わずか5時間くらいしか寝ていないけれど、なんとか起きることが出来た。起床事故を起こさないのは、僕の数少ない特技の一つかもしれない。
ホテルの人は特別に朝食を早く食べられるよう準備してくれた。もちろん準備のしやすいメニューだったんだけど(だって即席スープとかだったし)、わざわざ早起きさせたことには変わりないし、何しろこの季節だから温かいものを余計に1つ食べれることのありがたさは身にしみている。
僕は始発の列車で室蘭線を経由して岩見沢へ向かった。途中から高校生が乗ってきた。こんな寒いのによく待っているなあと心の中で感心していた。やがて空が白んできた。今日は天気が良さそうだ。
岩見沢には予定より遅れてついた。なにしろこの地域の高校生は席を譲ったり詰めたりは絶対にしない。そのため乗降にめちゃくちゃ時間がかかってしまったのだ。これもまあ、「それで回転しているならそれも文化か」そんなことを思った。
それから滝川へ向かったのだが、そこから3時間待ち。「普通列車だけ」という謎に付帯天和決意を抱いていた僕は深川まで乗ろうと思えば乗れた特急を5~6本見送るということをやってのけてしまったのである。もちろん持っていた本のうち1冊は読み終えてしまった。
深川へ着いたらもう正午だった。留萌線が止まっているらしいとの情報が出ていたが、13時の便からは動くという。
このとき実は石北線も留萌線も止まっていた。いずれも僕は旅程に組み込んでいた。出発前から心配事が耐えなかったのはこのネタをつかんでいたからである。でも、1度行ってみるしかなかった。
2014年12月18日・苫小牧→増毛→上川
留萌線は、深川を出ると右旋回して平野を突っ切る。キハ54は軽快に飛ばす。ローカル線と言えば「山・トンネル・鈍足」というイメージだからこれまた覆ってしまう。僕は「はやいなあ」って思ってたはず。
北一已って「きたいちやん」と呼ぶのは知らなかった。石狩沼田あたりまでは平野。夏なら田んぼや畑なんだけどいまは雪原が広がっている。石狩沼田から先は徐々に山並みが迫ってくる。そうするとスマホも「圏外」である。山を越えると「留萌」だ。しばらく前に海鮮丼を食べに行ったことがあったのだけど、今回はパス。
留萌線のクライマックスは、留萌から先にある。なぜなら、車窓に日本海が広がるから。
留萌を出て次の駅である礼受から先では眼下に日本海を見下ろすような構図になる。冬の北海道は日が落ちるのは早い。だから午後3時前だったけど、もう薄暗かった。雲も出ていていかにも冬の北国の海という感じだった。このわびしさみたいなのが何ともいえない感慨を生み出すというのを僕は知った。
あっという間に増毛に着いた。本当は留萌から30分くらいかかっていたはずなのだが、日本海をみていると1分が10秒くらいに思えたのだろう。しかし駅前は人通りはほとんどなくて寂しかった。でもローカル線の終着駅というイメージにはぴったりあっていたものだ。そして、無人駅というおまけつきである。駅舎の中をみると、貼り紙と駅時刻表が。それにしても時刻表寂しかったなあ。
この日はまだ滝川に戻って根室線・富良野線・旭川から上川と行くつもりだった。増毛駅に滞在したのはわずか10分程度だった。
*
深川から滝川までは今はない711系だった。
滝川で暗くなったので夕飯の確保に奔走したのだが、店がない。というか閉店していた。これには焦った。近くの100円ショップでパンを買うのがやっとだった。仕方なくそれを夕食にしようと富良野行きの普通列車に乗り込んだ。
しかしここで次なるトラブルが起きた。石北線の運転再開の見込みが立たないのである。翌日上川の始発列車で峠越えを考えていたのだが、どうやら厳しいようだ。でも、翌日はさらに釧網線に乗って川湯温泉まで行かなければならない。
僕は時刻表をめくった。なんとかして次の日に川湯温泉まで到達できる方法はないかと。不安が的中して焦りが募った。ものすごい勢いで時刻表をめくりはじめた。
川湯温泉に宿泊といっても駅から2キロある。しかも、バスの時間は調べてもよくわからなかっというありさまで、日没前につかないとまずいことはわかっていた。夜間に2キロも歩くことを避けるには午後3時くらいにはつかないとはっきりいって「ヤバい。」都会なら明かりがあるけれどこういう場所でそれを期待してはいけない。本当に真っ暗になってしまう可能性が高い。
翌日上川からスタートしたとして石北を迂回する方法を考える。
まず、特急は使えない。きっぷのルールだ。追加で払ってもいいがそうすると札幌まで戻りまた乗り直し、つまりとんでもない金額がかかるので却下。そうすると旭川から新得へ狩勝峠を越えるしかない。
上川の始発時刻を調べる。その列車から旭川で乗り換えられる列車を探す、その列車の終着でまた乗り換えられる列車を見つける…破綻した。川湯温泉駅には行けるかも知れないが、日没前には絶対に間に合わない。胃が重い。この時点で上川のホテルをキャンセルするか川湯温泉をキャンセル、いずれにしろ大幅に旅程が狂う。
キャンセル料云々も心配だったが、僕はこの旅行にひとつのタイトルを懸けていた。
2013年晩夏・宗谷線→2014年12月・新十津川
この日の札幌の最高気温は30度近いという予想だった。お盆を過ぎたこの時期の札幌にしてはちょっと暑い。僕は知人に勧められて、初めて青春18きっぷを手にしていた。
「去年な、稚内にいったんだ」その知人は朝札幌を出て普通列車だけを乗り継いで夜に稚内にたどり着いたという。翌日宗谷岬を、つまり日本の最北端を拝んだという。朝一の列車で向かえば音威子府で蕎麦を食べれる。
そんなような話で乗せられた感もなくはなかったのだが、同行者1人を伴って6時の旭川行き普通列車に乗り込んだ。キハ40である。同じ車窓を見るのでも、電車から、特急から、そしてこのキハ40からそれぞれ違って見える。キハ40の少し小さい窓枠から見える景色はなんだろうか、新鮮…どこか現在にいて過去にいるようなそんな気分にさせてくれる。
朝9時前に旭川に着くと結構冷えてた。乗り換えに1時間以上空くので旭川駅前を歩いた。朝市をやっていて余ったトマトをもらった。
名寄行きの快速列車に乗る。ここからは未知の世界だ。名寄までは2時間足らずだった。そのまま跨線橋を渡る。いよいよ稚内まで行く普通列車だ。キハ54が軽快に峠を越えていく。ただ、不思議とトンネルはほとんどなく川沿いを進んでいく時間が長かった。
音威子府駅では、10分余りの間に蕎麦を注文した。黒蕎麦。麺の色が普通の蕎麦よりもちょっと黒い。そばつゆも含めて「あ、蕎麦だ」と思った。
列車はずっと北へ向かって走り続ける。それが顕著になったのは幌延についたとき。急に冷気が押し寄せてきた。気温が急に10度近く下がったのだ。そのまま稚内に着いたら15度を下回っていた。夏なのにたまらない寒さだった。
*
僕はこの旅行の前に新千歳~札幌・札幌~旭川・旭川~網走・札幌~小樽・余市には出かけていた。札幌~小樽は札幌に来た最初の秋、11月3日に行ったのはいまでもよく覚えている。空が青く、燃えるような紅葉が見られた日だった。このときが実質北海道に来てからの初めての旅だった。
稚内の旅を終えてから豊橋→東京を初めて普通列車だけで旅をした。その日はその足で成田へ向かいそして新千歳から札幌へ向かった。飛行機以外は全て青春18きっぷ、それも1回で完結するという実に変わったものだった。
2014年。僕の身の回りが大きく動いた年だ。リアルでは不幸に不運が重なっていた。
5月に函館線山線・室蘭線長万部~苫小牧を1周した。これも1日。
7月には札幌→滝川→富良野→ラベンダー畑→富良野→新得→追分→沼ノ端→札幌という長い1日を過ごした。その翌月には小幌にも行っている。
10月のある日。僕は朝から苫小牧へ向かっていた。苫小牧駅に着くと日高線へいくキハ40が既に発車を待っていた。列車は、しばらく室蘭線と併走するとやがてわかれ我が道を行きだした。静内から先では海が見え隠れした。青空にきれいな海の組み合わせは寒かったにもかかわらずいい味を醸し出していた。ときおり内陸へ入り馬が歩いているのが見える。こちらもまたのどかな表情だ。様似駅も静かなところで、襟裳岬まではバスで向かった。
風が強かった。とにかく。寒かったけれど、空は秋晴れのままだ。地球が丸く見えるのではないかというくらい襟裳岬からの景色はスケールがあった。地球岬よりもひょっとしたら迫力があったかも知れない。
日高線から見た夕日も忘れられない。帰りがちょうど日没の時間と一致したのである。水平線の彼方に太陽が落ちていく。その時の様子は、当時使っていたNikonのCOOLPIXS6300でおさめてある。
そして、最大の驚きはこの3ヶ月後に日高線が不通区間になってしまったことである。まさかと思っていたのだが、日高線の旅が最初で最後のものになってしまったのである。でも、いけただけでもよかったのかもしれない。
11月。僕は室蘭線の東室蘭~室蘭を訪れた。洞爺湖にも足を運んだが鈍色の空が何ともいえない暗さを演出していた。
*
12月。このところ続いてた体調不良は、半分以上心労が重なってそれが身体の不調に回ったことは明らかだった。何度も熱を出しては倒れ、普段は拾わない頻度で風邪をひろってくる。そうした日々の合間に僕は札沼線へ足を運んだ。
半分は心労が重なったので、ふらっと出てみるくらいのつもりではじめていた日帰りの鉄道旅がいよいよその域を出始めていた。
そもそも鉄道趣味なんて子ども時代のもので「好きだけどもう一度帰ることはない」と思っていたのである。時刻表はめくっていた。けれど、旅をすることは出来なかった。小学校の頃はそもそも体力的に旅をするには早すぎた。
僕は正直に告白すると潜在能力は下の下だと思う。中学や高校では学校の予復習だけで手一杯の状態だった。他にちょっとでも手を出せば成績が下がるのは目に見えていたのである。だから、諦めるしかなかった。その間に、ブルートレインがなくなってしまっていた。小さかった頃に走っていたはずの国鉄特急もほとんど姿を消してしまっていた。
大学に入っても、鉄道は好きだったが特に何かすることもなかったのである。それが、不幸や苦しみの先にようやく戻る機会を得たのである。最初は本当に日帰りだけ。別に大規模な何かをやろうという考えもなかった。
それが変わり始めたのは、秋。たまたま僕は時刻表を開いていた。時刻表でも路線図は面白い。いろいろ想像を膨らますことが出来るし、次の旅どんなルートにしようかなというネタ探しも出来る。そこで、ふと北海道の路線図を見て「いま自分はどの路線に乗っただろうか」頭の中で色塗りを始めた。
すると、既に半分前後は埋まっていた。宗谷線も石北線も埋まっていた。函館線の山線も埋まっていたのだから、ピースが急に埋まり始める。そして気付いた。「室蘭線の支線・札沼線・日高線このあたりを事前に乗っておけば、1回の旅行だけでJR北海道の全路線全区間を旅することが出来る」ということに。
この10年前、今よりも身長が30センチくらいは低かったであろう子どもの頃の僕は時刻表を眺めていた。いろいろある路線のページを開いては「こんな路線があるんだ。」遅い時間の列車を見ては「夜まで外に出てこんな旅行だって出来るんだ。」でも、身体もそう強くはなかった僕は「やっぱりいけないよね」だった。その時の僕が思ってたのは「大きくなったら本当にいけるのかな」
JR北海道のコンプリートをコアに計画が膨らんだ。これでこのまま海峡線で東北へ渡ってそのまま東京へ出て、自分の故郷まで乗り通そう。ここまで膨らむのに時間は必要なかった。なぜなら、これこそが10年前の僕の「夢」であり「願い」であり「希望」だったのだから。
*
新十津川は雪がしっかりつもっていた。寒さをあたたかさに変えてくれるのは近くの園児と保母さんだった。話で盛り上がっているうちに危うく折り返し列車に乗り遅れるところだったことはちょっとした思い出である。しかも、運転士にもう一度ドアを開けさせてしまったのだから。
10年近く前に止まった時計が再び動き出した。
2014年12月19日・富良野から狩勝峠を越える
JR北海道コンプリートが不可能になるのではないか、それがもうひとつの心配事だった。暗闇を突き進む車内で僕はずっと時刻表をめくっていた。
答えは出た。釧網線の運行状況は気になるが、上川の宿をキャンセルして旭川に差し替える。そして旭川を朝一番に出発する。この2つの条件を満たせばたどり着くことが出来る。旭川を午前5時45分頃に出発してそのまま狩勝峠へ向かってぐるっと迂回する。
結局宿をドタキャンすることになってしまった。電話したらトラブルになる寸前だった。運良くキャンセル料の請求こそなかったが、最初に全て予約したのは大失敗だったと気付かされた。この規模の旅行で最初から全部決め打ちするのは絶対辞めようと思った。
トラブルになりそうになったときは、正直胃が痛い思いだった。旅行開始早々こんなんで本当に大丈夫なのか、やっぱり無謀だったのではないか。
旭川に着いたのはやはり夜遅かった。何とかおさえた駅に近い宿で休んだ。コンビニがあったので軽く夜食を買って食べた。それを食べ終えると僕は明日の出発時間を思い出して、アラームをセットしてから眠りについた。
*
午前5時半過ぎの冬の旭川は真っ暗だ。おまけに寒い。それに寝不足で眠気もある。でもこういうときは眠たくてもなかなか寝れない。それがまたつらい。それでも列車は走り続ける。車窓に旭川駅が消えると再び真っ暗闇である。
神楽岡など旭川の町を下っていたようだけど、その辺はおよそ何も分からなかった。30分ほどしてアナウンスがあった。美瑛が近づいてきたようだ。その頃になるとようやく外の様子がおぼろげながらわかる感じだった。
美瑛からは高校生が乗ってきた。この冬のこんな時間帯・こんな寒さでよく列車待ってるなあと感心してしまう。車内は賑やかになってきた。それとともに徐々に空が白んできた。美馬牛を超えて富良野に入った。
夏であれば、ラベンダーが見えたり畑が広がっていたりする車窓がいいところだ。冬の車窓はこれが初めてである。その平野に突入すると、富良野線はずっと先までその平野を直線で突っ走る。
するとどうだろう。夏の緑や花のカラフルさとは一変して一面の雪原だ。カラフルな見栄えがするわけでもないのだが、思わず見とれる美しさがある。
富良野まであと少し。左腕には旅行前にバンドが壊れたため新調した腕時計。腕時計の表示は7時ちょうど頃だったはずだ。
「そろそろ到着だ」
そう思ってたときに、窓から一筋の光が差し込んだ。
もう一度車窓に目を移した。
真っ白な雪原の向こうに朝日がまさに出てこようとしていた。冬でも太陽の光は力強い。その光に僕は完全に目を覚ました。朝日が雪原を照らす、この時間のこの列車に乗らなければ絶対に見ることが出来ない美しさだ。旅程を変えてしまったという後悔があった。でも、その後悔を吹き飛ばすには十分すぎる美しさだ。
*
富良野のホームに降り立った。足元の雪を踏むと「きゅっ」と音がする。-10度まで冷え込んだなと思った。そりゃそうだ。ホームで待つ5分で寒くなってくる。
列車を乗り換えて、再び山を越える。やがて石勝線と合流した。面白かったのは途中の信号場でずっと停車していること。その間に上りのおおぞらが停車しさらに下りのおおぞらが通過していった。
昨日までは荒れ模様だった空も今日は青く澄み渡っていた。
*
帯広で10分程度時間があった。晴れ渡った帯広、そうだ名物と言えば豚丼だ。ということで豚丼をオーダー。しかし注文してから焼くので逆算すると乗り換え列車にダッシュで向かわないといけないことがわかった。これまた内心「ヤバい」とは思ったが、心配してもしょうがないと焼き上がるまで帯広駅構内をうろついた。
他にもパン屋さんやお菓子が売られている店があったが、結局買わなかった。まあ僕スイーツは食べるけど別に「スイーツに目が無い」というほどではない。それこそ10年前は大嫌いだった。豚丼を引き取ると僕は急いでホームへ戻った。
普通列車は富良野から乗ってきたそれとホームタッチでの接続だった。でも僕は豚丼のために改札を一旦出ていたので階段はもう一度上り下りだ。乗込とまもなく列車は出発した。
今度もキハ40だ。安心して店を広げてのんびりと昼飯を食べることが出来る。ボックス席に荷物を置くと(すいているから大丈夫)、早速包みを開いた。午前11時前で昼食にはちょっと早かったはずなのだが、出来たてだからこそ冷める前に食べたいものだ。
ちなみに、その時もコンデジかスマホで写真を撮っているはずなのである。しかし、どれもこれも手ぶれしたものばかりでがっかりしたのは後日談である。
味は一言であらわせば「最高」というもの。脂ののった豚が香ばしいタレと絡んでいてこれがたまらない。豚のうま味がしっかり引き立っていた。あっという間に平らげてしまった。豚丼は豚の枚数選ぶことが出来たのだが、「もっと増やせば良かったか、ごはんも大盛りにすべきだったか」などとちょっとうれしい後悔もした。
昼を食べるとちょっと眠たくなる。次に意識がはっきりしたのはもう池田も浦幌も過ぎて白糠へ向かう途中だ(本当は新得~釧路までは全て新たに乗る箇所だから起きていたかったのだが)。相変わらずの青空だった。キハ40は快調で、運転席の近くまで行ってみると最高速度の95キロぴったりで走っていた。国鉄車両の(エンジン換装したというのはさておき)95キロは、僕の感覚だと最新車両の120キロくらいに感じられる。速く感じるのは絶対的な数値だけではないのだろう。
やがて、キハ40は直別駅にとまった。特急おおぞら6号を待ち合わせるために5分以上とまるみたいだった。跨線橋はあるがそれ以外は本当にローカル線の駅である。僕は運転士の「外で撮ってきていい」というありがたい言葉に従って、おおぞら6号を跨線橋の上で見送った。
普通列車はやがて、海沿いを走るようになった。白糠を過ぎた。そうするとゴールの釧路が見えてくる。時間的にはお昼過ぎだ。けれど、朝が早かったのでもう午後3時とか4時とかとにかく体内時計が進んでしまっている。
*
釧路からいよいよ釧網線だ。石北線は乗ったのでこれと2日後に予定している花咲線に乗れば道東はクリアだ。しばらく前に釧路湿原までは行ったような記憶があるのだが、それより先細岡・摩周などは僕にとっては行ったことのないところである。青空に恵まれたおかげで、列車はほとんど時間通りだ。
東釧路から分岐して北上するとやがて釧路湿原という名前の「雪原」が広がり始めた。時折線路に鹿が出没するので急ブレーキを引く音が何度か聞えてきたが、その車窓をゆっくり堪能することが出来た。途中、タンチョウもいた。タンチョウを万が一列車がはねてしまうと始末書という噂が聞えてきたが、スルー。
やがて、列車は山を分け入った…ところで川湯温泉に到着した。日没まであと30分。結局バスの時刻は確信が持てないままだ。けれど、今日の宿までの道順はだいたいわかっている。ということで、僕は歩き出した。
ところどころ、滑りやすいところがあったが基本的には歩きやすい日だった。すたすたと歩いた。途中から坂を登ると硫黄のにおいがした。後でその周辺、「硫黄山」が観光地だったということを知ったのだが、静かすぎてわからなかった。とりあえず硫黄山だとは知らなかったが、その山がそびえるのも迫力があった。
そのまま歩き続ける。直線に入るとずっと先まで何もない。地平線が見えるのではないかと思ったくらいだ。車は時折すれ違うが、それ以外は音もない。
日が暮れてきた。いまさら気付いたのだけど、街灯がない。というか、街灯がずっと向こうにひとつあるだけだ。どんどん暗くなっていく。確かにそろそろ午後4時で日没のお時間というわけだ。やがて、街灯だけをたよりに、黙黙と歩き続けるというちょっとしたサバイバルになってきた。
とはいえ、30分歩けばだいたいつくという計算だったので、本当に真っ暗になったのは最後の10分くらいで、セイコーマート(だったかな?)の看板が見えた。温泉街の入口である。
僕は、石北線がとまったがために慌てて変えた日程を何とかこなして目的地までたどり着くことが出来た。この旅行のなかで初めてホッとした。
*
夕飯は、鹿肉定食。鹿のチャーシューと鹿の焼き肉をメインにごはんと味噌汁などがついていた。鹿のチャーシューは赤身で油がなくてヘルシー。焼き肉の方は本来鹿には「くせ」があってにおいが気になるところだが、味噌だれが見事に打ち消していて美味しかった。
その店のご主人が食後あらわれた。鹿肉のチャーシューは水から炊いたものだそうだ。そうしないと食べられないレベルの部位だという。でも上手く調理されていたのはプロの腕前というものだろう。温かい雰囲気の昔ながらの食堂を堪能出来た。
*
夕飯後、川湯温泉駅から来た道を少し戻った。街灯から離れて真っ暗になったところで僕は立ち止まった。
よく晴れていた。満天の星空…とまでいっていいかどうかはわからないが、都会とは比べてはいけない。漆黒の闇に浮かぶ星の数々。この前こんな空を見上げたのはいつだろうかとふと思い返した。でも、すぐには思いつかなかった…あ、ひょっとして1年前だったかな…でもそれ以前はよく思い出せなかった。
寒いのにもかかわらず、星空を僕はしばらく眺めていた。
2014年12月20日・釧網線
翌朝、僕はバスで川湯温泉駅に戻った。川湯温泉近辺がかつての大横綱大鵬の降る里であることはこの朝知った。昨夜は酸性の温泉はよかったのだが、酸性が強すぎて肌に微妙にしみてくるので長湯は無理だった。
バスで戻ると何人か乗客が待っていた。そのなかに、足湯のあるガレージのドアを蹴り上げている少年がいた。ちょっと滑稽に思ったので声を掛けると、「ドアが開かない」という。雪や寒さのせいであかなくなっているだろうとは思ったが、蹴破って壊したら大変である。
結局諦めたところで、話を聞くと高校生だという。しかも、終業式はさぼって旅行したのだという。図太い。僕には絶対に出来ないことだ。その子もそろそろ高校卒業しているのだろうか。一期一会とはそういうものだ。
やってきた列車に乗って網走方面へ進む。今度はリタイアした男性と一緒に前面展望を楽しんだ。山を越えると再び平野に戻り、北海道らしく直線をまっすぐぶれずに突き進んでいく。今日も天気が穏やかで青い空に白い雪の組み合わせだ。
何かとりとめのない話をしていた気がするのだが、それはもう覚えていない。でも、1時間半はあっという間で、いつの間にか網走に着いていたという感覚だ。
*
網走監獄を見学した。最初はバスの乗り場が分からなくてうろうろしてしまったが、たどり着けばこっちものである。とはいえ、昔の監獄はさすがのもの。懲役なんて言われたら生きて帰ってくるのが本来のはずだが、見れば分かる「帰ってこれない」ってやつだ。これを見てどう思うかは端的にその人の価値観が出るだろうな、そんなことを思った。いやもっとはっきりいってしまおう。僕は「この時代に戻りたくはない」と思った。直感としては、「罰したいのはわかるけど、ここまでやっちゃうと気が引ける」というやつだ。
明治期などは本当に臭い飯…というよりは冷え切った飯と味噌汁というやつだ。それをもって、現在のブラック企業も真っ青の労働時間である。ストーブはほぼきかない。いまの僕と同世代くらいの若い人なら「悪い奴にはそれくらいを」と思う人も多いだろう。しかし僕は気が引けてしまった。なんでだろうね…
昼飯は監獄飯と思ったが冬季休業中だったので網走駅に戻って駅弁を買って再び釧網線の普通列車に乗り込んだ。乗り込んで海鮮丼の駅弁を食べるとあっという間に日が暮れて夜になった。
2014年12月21日~22日・釧路→根室→夕張→追分・南千歳→函館
20日の夜は釧路に宿泊した。釧路は残念ながら、路面が凍結していて100メートルに1分ではなく100メートルに10分かかりそうな勢いだった(いや実際にそこまでかかったわけではない)。ホテルは相変わらず3000円くらいの安宿。とはいっても、東京のビジネスホテルで6000~7000円くらい払うのと同じくらいのクオリティだ。
その日の夕飯は親子丼。これがどこの店だか忘れてしまったのだが卵の味とダシが絶品だった。また行きたいのだがいけてない。
*
21日は始発列車で根室へ向かう。またまた午前5時起きでスタート。起床事故はなし。安定している。とはいえ、やっぱり少し眠いというかなんか疲れた感じは残る。
釧路を出発した花咲線の列車は、暗闇をぐいぐいと進んでいく。日の出は午前7時頃。空が6時半くらいになって白んできた。厚岸だ。牡蠣といえば広島だが北海道ではこちらが有名だ。僕も食べたことがある。大きな「実」にうま味が口全体に広がったのはこの旅行よりだいぶ前の話である。
ここでも鹿が出没する。鹿が線路上を逃げるので、朝日の下で僕の乗っているキハ54と鹿が鬼ごっこをしているようだった。この鬼ごっこは結局鹿が線路脇へ逃げることで解決したのである。
根室に到着したら午前8時過ぎだった。根室駅の駅舎も網走や釧路と同様国鉄時代のものだと思う。モダンな建築も悪くはないのだが、国鉄みたいな作りもいい。人間味があるといったらいいのだろうか。そういうものを感じられるからだ。
僕は根室駅前からバスを拾った。向かったのは納沙布岬。数十分過ぎてようやく納沙布岬が見えてくる。
雪がないからさぞかしあたたかいかといわれればそうでもない。風が強いのでむしろ体感的には札幌より寒い。外をぐるぐる見て回るのは5分か10分でギブアップして早々に屋内に入った。そして展望台にあがった。
展望台からは「北方領土」が見える。視界が良かった。さらにロシアの巡視船も見えた。北方領土が実質的にはロシアによって支配されているという現状を否が応でも受け入れざるを得ないのである。日本が実効支配していた時期もあるのだけれども。
北方領土と逆の方向を眺める。陸続きだ。この広い大地の先には釧路・帯広・網走そして僕が住んでいる札幌もある。ちょっと向いている方向を変えれば東北や首都圏・関西の方を向くことになるのだ。逆を眺めた方がスケール感を感じられるかも知れない。この先に日本全国47都道府県があると思えば。
*
そんなことを思ってバスで根室に戻った。根室ではカツライス的な食べ物である「エスカロップ」を食べた。海沿いなのにとんかつ(だっけ)をご飯の上に載せてしまうのだから不思議である。手軽に食べれて味もよし。コスパには優れているといえる。
満腹になったところで花咲線の折り返しに乗ると、眠気が襲ってくる。午前5時起きだとこの辺で力尽きるようだ。次に起きたら、釧路にほとんど戻っていたのである。
釧路で、駅弁を買ってまた普通列車に乗り継ぎ。今度は帯広だ。これまた、冬の北海道である。乗ったら夕日が差し込んでそのまま夜になってしまったのである。
*
帯広も素泊まりで1泊。またまた早起きして新得経由富良野方面行きの普通列車に乗り込む。高校生がもう乗っている。何処へ向かうのだろうと思っていた。芽室を過ぎても降りない。僕は朝食を食べたはずなのだが何を食べたのだろう。
結局新得で下車した。新得の駅舎を大量の高校生が出て行った。僕もおおぞら2号に乗り換える。なぜなら新夕張までは普通がないから特例として北日本&東日本パスでも乗車できるし、そうしないと移動できないからである。
それにしてもこの日はよく冷えた。新得では雪を踏むとあの「きゅっ」という音が聞こえてくる。おおぞら2号を待つ5分がものすごく寒い。この「肌を突き刺す」ような寒さ。これは北海道ならではのものだ。
おおぞら2号は快調に飛ばして新夕張についた。1時間余り。しかし、ここから夕張支線へ行こうとするとなんとなんと列車が2時間くらいは来ない。仕方ないので、駅前の店へ行って暇をつぶし、昼食を購入して待った。
やがて、とかち4号で中高年くらいの男性が降りてきた。どっからともなく会話が弾んだ。どうも、夕張支線がねらいだったようである。でも、列車が来ないからさあどうしようというわけである。結局話をしている間に出発時間が近づいてきた。車窓をそれほど眺めずに話している間に夕張駅に着いてしまった。
夕張駅では折り返しがわずかだった。だから、長時間の滞在を見送った。そのまま普通列車が追分からも石勝線を経由して千歳まで行ってくれる。石勝線の追分~南千歳だけはずっと残っていたのである。
この辺も、ひとりでやっているとそれなりに長かったはずなのだが、男性とあれだこれだ話しているうちに南千歳まで戻ってきてしまったのである。男性とは本当にあれだこれだと話をしていたが、外国勤務があったせいで、子どもが1人で国際線で乗ってくるとかいう通常ではあり得ないことが起こっていたという。どうあっても自分の子どもがかわいいということだけは伝わってくるものだ。
*
このあとは函館までひたすら普通列車。このときは函館までつながっていて、暗くなってから相当時間はたつものの、何とかホテルにたどり着くことも出来たのである。いつの間にか長万部から先の函館本線も森から砂原支線・仁山経由で通し乗車してしまっていたのである。
これが2014年北海道での最後の夜だった。明日は順調にいけば海峡線で渡り、東北に入っているはずだった。この頃になると精神的に余裕が出てきた。純粋に旅を続けて「楽しい」と思えるようになっていた。
晴天にも恵まれてようやく不安の色を脱しつつあった。
2014年12月23日 海を渡り・JR北海道完結
この日も午前5時起きである。函館本線はあと藤代支線と大沼公園経由のルートを残していた。始発の普通列車でそれらをつぶして一旦森まで戻る。森ならいかめしと思ったのだが、残念ながら売店はまだ開いていなかった。仕方なくそのまま今度は渡島砂原経由で函館へ戻った。
函館へ戻るとそのまま江差線を木古内へ。本当は江差までも乗っておくべきだったのだが、この年の5月の廃線に間に合わなかった。いけなかったことを後悔もしていたが、逆にいまもあれば今回ではJR北海道を全区間乗るなんてことはできなかったかも知れない。
列車は数分遅れて木古内へ着いた。ここもキハ40だった。一度改札へ跨線橋を上がった。
跨線橋から見る景色は北方向だ。今日は雪が降っていた。この先にいままで乗ってきた北海道の全区間がある。このあと僕は、485系の白鳥に乗って海峡線を行く。中小国を通過した時点で、JR北海道で乗るべき区間がゼロになる。北海道の旅がこれで一応終わるのだ。
しばらく感慨にふけっていると、時間がやってきた。ここも特例区間。特急に乗る。
白鳥が入線してきた。いよいよ最後の列車だ。
*
白鳥は軽快に走る。出発したらあっという間にトンネルをくぐる。何度か出たり入ったりを繰り返したが、何個目かのトンネルは「お、長くなりそうだ」と思った。どうやらこれが青函トンネルのようだ。乗っている客からすれば、単なるトンネルだが、実際は海底を走っている。リアリティがないけどそれが事実だというのだから、何とも不思議な感覚である。
25分ほどたっただろうか、突然車窓が明るくなった。
本州だ。青森県に入った。
雪は相変わらず降っている。でも、青函トンネルを抜けた。答えはひとつだ。僕は生まれて初めて東北の地に足を踏み入れたのだ。その後も断続的にトンネルを抜ける。
それが続いた後、特急がスピードを落としたいよいよ、中小国の手前の信号場を通過する。この瞬間に、JR北海道の全区間を乗り通したことになった。乗り鉄として初めてのタイトルである。うれしいというよりは、この雪の中でよく終えられたという安堵感が勝った。
再び2017年12月22日
僕は、キハ281系のスーパー北斗に乗っていた。3年前、僕はフリー切符って安いよねと思っていた。でも、あれからいろいろ試した僕の結論は「場合によりけりだよね」だった。日程を短縮できれば、特急を使っても大して変わらないかもしれないのである。
政府のinbound政策のたまものであろう。TLには悪口も見かけるが、あくまでも政府の政策の成果だろう。南千歳や登別で大量の外国人の乗降があった。一時的に自由席は立ち席で乗車率200パーセント観測できるんじゃないかという勢いだった。僕は車内販売で事前注文が必要なもりそばを頼もうとしていたので、乗客をかきわけてわざわざスタッフを探したほどだ。そうでもしないと、東室蘭駅までの事前注文に間に合いそうになかったのである。
それでも何とか注文した。盛りそばは蕎麦ダシも含めて美味しかった。ウズラ卵を割るのがまたそれはそれで面白かった。デザートもちゃんとついてたんだよね。
途中4分くらいは遅れていたような気がするが、この3年間に出来た北海道新幹線の新函館北斗~五稜郭の間で挽回して、函館にはほぼ時間通りについていた。
今回も3年前ほどではないが、3年前と同様風邪気味である。くしゃみは出るし、ハンカチの携帯は必須だ。おまけにちょっとだるい。変なときに汗が出る。あんまり無理をするわけにも行かないのだが、せっかくの機会を無駄にするわけにもいかない。函館の市電に乗って、五稜郭へ向かった。
市電って結構時間がかかる。停留所での停車はもちろんのことだが、信号でも止まる。30分以上はかかった。なおかつ終点まで乗ってから五稜郭に折り返したので1時間近くもかかっている。
とりあえず、五稜郭タワーは有料なのでパスをして公園内を散策した。相変わらず北海道の日暮れは早い。箱館奉行所を眺めている間に暗くなってしまった。しかし、その直後にはじまったライトアップは幻想的でとても美しかった。
*
そのあとは、函館市電を全部乗り尽くした。この瞬間、道内の鉄道を全区間乗ったことになる(リフトや遊具を除く)。JR北海道完結から3年の時間がかかった。最後に僕は函館山へ上がった。一眼レフでも夜景を写してみたかったのである。
とはいえ、ISOがあがるか手振れするかの2択だった。やっぱり三脚はいるなと思ったけど、露出を変えてみていろいろ撮ってみるのは楽しかった。寒かったので何度も休憩しながら続けているといつのまにか30分のつもりが1時間くらいたっていた。子供のころ「楽しいことで時間が過ぎるのは早い」と教わったがまったくもって今も変わらない。
山を降りたら午後9時。僕は空いているラッキーピエロを探して遅い夕食をとった。翌朝は早いから急がないといけなかったのにもかかわらずのんびりとしたものだった。
*
翌日、僕は朝5時起きだった。3年前の今日と一緒だ。僕は函館駅に向かい、そして列車に乗った。でも、3年の月日が流れた。3年前の僕は森駅からもう一度普通で折り返し、木古内まで江差線そして特急白鳥に乗った。今の僕は、新函館北斗から北海道新幹線に乗ろうとしている。
もう戻っては来ない日々を思った。
2014年12月24日・五能線→田沢湖から温泉地
僕は弘前に投宿していた。弘前も雪は積もっていて、なおかつところどころ凍結して歩くにはちょっと危なかった。でも、今日はこれから初めての東北旅だと思うとちょっとうきうきしてもいた。
リゾートしらかみは当時最新の青池編成だった。ハイブリッド気動車だという。確かに静かなときは静かだ。列車は、五能線に入ってりんご畑を抜ける。五能線に入るとあまり雪が積もっていなかったため、畑のあるところもよく見えていたように思う。
千畳敷では10分の特別停車。当然降りて見に行く。
ここでアクシデントが起きた。なんとデジカメ(当時はNikon CoolpixS6300)のバッテリーが切れた。充電器を持ってきたと思ったらそれも札幌にうっかり置いてきたのだから笑えない。何度かチェックしたはずなのだけれども。
とはいえ、日本海を拝む千畳敷からの風景はなかなかのものだった。仕方なく当時のスマホに切り替えて続行だ。でも、この当時のスマホ、デジカメより性能が落ちるからつらい。まあ、僕が下手なだけなのだろうとも思ったのだが。
日本海を拝みながら、時折トンネルを抜けながら実にのんびりとした旅だ。僕は指定席から離れて前面展望を楽しんだり、スタンプをおしたりしながらまったりとしていた。そうするとまたあっという間である。東能代についていよいよ秋田へ入った。
*
秋田駅でようやくお昼を買った。ずっとリゾートしらかみに乗っていて買っている暇がなかったのである。そして、乗り換えた先の大曲方面普通列車の中で食べようという魂胆だった。
しかし、そうはいかなかった。本数が少ないためか列車は超満員。立ち席になってすぐに食べることができなかったのである。僕はまた前面展望を楽しみながら、座れるのを待った。
秋田から大曲へ向かう奥羽線は面白い。秋田新幹線の線路と併走するからである。僕の乗っていた列車は通常の左側ではなく右側を走る。左側に新幹線の線路があるのだ。ミニ新幹線という言葉を子どもの頃に習った。新幹線の線路幅のまま在来線のあった箇所をそのまま通り、山も谷間も最高時速130キロで走るという。一度見てみたいと思っていたものを僕はようやく目にすることができた。
大曲までには昼飯もなんとか座って食べて田沢湖線へ。ここは新幹線用の線路オンリーで普通列車もそれにあわせた車両だ。顔は同じだが、足回りが違うというやつ。
この日僕は田沢湖からバスで1時間弱かかる奥地まで足を運んで温泉宿に泊まった。奥地まで来ると雪が深い。札幌や岩見沢とは比べものにならない。枝に積もっている雪の量が違うし、路肩の除雪した雪が織りなす「壁」の高さも違う。まさに豪雪地帯なのである。
夕飯にはきりたんぽを食べた。この寒い時期だからこそおいしい。温泉は「熱湯」だったが、夏でないのが幸いだった。古い建物にある古い温泉、これもいままでなかなか味わうことの出来なかったものだ。
風呂をあがって浴衣姿で廊下を部屋まで戻った。1人でこういう風に気の向くままというのは満たされた感じすらした。最初札幌を出たときとはまるで違った気持ちである。もう1週間たってすっかり旅行のペースになってきたのである。そして、体調も不思議といい。ご飯もいつもより食べれる。
部屋の前にたどり着いた。となりにももう一部屋あった。今日はもう1組宿泊しているという。もう一部屋のドアから1人の女性が姿を現した。2人女性友だち同士で泊まりに来たことは既に知っていた。
このクリスマスの夜である。なぜ、友だち同士で来たのか聞くのは野暮である。
「ねえ、わたし何歳だと思います?」
「25歳くらいですか?」
僕は会話から20代だろうと思っていたのは間違いない。
「へえ、20代に見えるんだあ」
実は30歳くらいだったらしい。そして、僕はその女性曰く「自分と同じくらいの年齢の人」だと思ったらしい。僕ってそんな地味な人なのである。
しばらく立ち話してそれで解散となった。僕はどっかのリア充やプレイボーイではない。もちろん外見は下の下である。そして、そういうのは今の気分からすると水をさすとか余計とか邪魔とかそういうものである。
僕は満腹感と満たされた空気に満足して眠りについた。
2014年12月25日・田沢湖→盛岡
クリスマス。僕にとってはもはや縁がない。けれども、旅行中の僕は朝起きてご飯を食べる。おひつにある白米はきれいさっぱりになった。これだけ食べれば大丈夫だろう。
僕は朝食後、近くの温泉へ行った。雪に囲われて物静かなものである。人通りもそれほど多くない。静かな道を歩いてとある温泉に着いた。僕は入湯料を払ってさっそく内湯に入った。いきなり露天風呂にはいってもよかったのだが、なんと有り体に言えばそっちは混浴だったのである。さすがに残念系男子といっても迂闊に手が出せない。
内湯でもクオリティは満足。今度は熱すぎないお湯で長湯が出来る。
やがて別の男性がやってきた。「お疲れ様です/こんにちは」と挨拶を交わした後に、どこから来たのかどういう予定なのか一通り会話を交わして早速「露天風呂どうでした?」と切り出してみた。温泉通のその男性は、いろいろまわる予定だそうだが、その男性によると
「テレビの取材が入った(過去形)ので女性陣は(ほぼ)いないかな」
僕はチャンスだと思って、内湯から露天風呂に移動した。
*
ガセネタだった…のではなくその男性の勘違いだと思うのだが、女性は複数名いるわ、テレビの取材は未来形だったわで散々だった。でも、そのアクシデントは腹をくくって苦笑いで乗り切った。雪景色はきれいだし、身体は温まるしその辺は他に代えがたいすばらしさがあるからだ。
僕はしばらくその露天風呂で過ごした。そしてあっという間に午後になった。
*
午後は雪の田沢湖を拝んで、ようやく田沢湖駅から盛岡行きの列車に乗った。峠を越えたらあっという間に盛岡についた。今日はここまでだ。余裕を持たせたのである。
早速宿にチェックインして僕はわんこそばを食べた。わんこそばはまさに「制限無しの大食い大会」だ。3000円弱の値段で、わんこそば…小さいお椀に入った味付のそばをどんどん平らげていく。15杯で盛りそば1枚分。
僕はひとりで無謀な挑戦に打って出た。なぜなら知り合いに「自分は107(だったっけ?)いった」といわれたらやるしかない。この道しかないのである。しかも、ご丁寧にそのことを店員に申告してしまったのである。迂闊である。フラグ決定。
味付のおそばは美味しい。蕎麦のうま味もさることながら甘辛いダシがまたいいのである。15杯そして30杯までは店員の人と話しながらすいすいといった。
ところが40杯からはしんどくなってきた。60杯くらいからはなんと味付のそばの「だし」が塩辛く感じるようになった。明らかに塩分過多である。日常的にやってはいけないなあと感じた瞬間だ。やがて、辛味がないと食べられなくなった。僕は、ピリ辛の方が食欲があがるタイプである。つまり、「食欲を無理矢理あげないと食べれない状態」というわけである。
でも、青唐辛子は便利なアイテムだった。良い刺激が食欲を引き戻す。70杯を超えて80杯も突破した。無理だと思っていた領域に到達した、ゼロだった視界が開けていくような感覚だった。僕はそこそこ食べるといってもこんなに食べたことなどいままでに一度もなかったのだ。
90杯に到達するとさすがにもう無理だった。でも、店員の煽り方は絶妙である。
「ここまできてやめるひとはまずいない。やめるひとはもっと前でやめていて、90という人はまずいなくてだいたい100はいく」
本当にそうかどうかは後々考えてみれば証拠はどこにもないのだが、あの局面でそう言われると引くに引けなくなる。90杯からは本当にやせ我慢だった。1杯ごとに胃から逆流してくる何かを意識せざるを得なかった。97、98と何キロも走った後にへとへとになりながら階段を上るような感じだ。98から99杯目、なぜかそれまでの98杯分の苦しみが乗っかってくるようだった。
投げ出しても良かった。でも、ここまできたら捨て損ないのプライドと意地である。気持ちだけで100の大台を突破したのは食べ始めから1時間後のことである。
それからも、お椀を積み重ね、知り合いの数字を超えた。
僕は結局111杯を食べたところでお椀の蓋を閉じた。
2014年12月26日盛岡→鳴子温泉
実はやめるときも簡単ではないいま食べているお椀にあるそばを食べ終えた上で次のそばが補充されるまでに蓋を閉じなければならないのである。やめるときも気をつけないといけない。
わんこそばのルールである。111杯でさっとお椀の蓋を閉じたが、もう身体が重たくてどうにもならない。これ以上何か食べたら胃が破裂するんじゃないかと思ったくらいだ。それでも喉が渇くので水がほしい。少しずつ飲んで紛らわす。そして、出てきた甘夏は別腹と偽っておいしく食べた。のどが渇いてたから余計に美味しく感じたのかも知れない。
「甘夏ならあと100切れ出てきても大丈夫そう」
一瞬そう思ってしまったのは、ダメである。
*
この日は、昨夜のわんこそばのおかげで食欲はゼロである。店を出てから50分は歩いておなかを減らさないととてもじゃないけど体調が持ちそうになかった。歩いている姿もよろけていたのできっと酔っ払いに見えていただろう。僕はお酒などのまない人間なのだが。
僕はまた始発に近い列車に乗っていた。盛岡を過ぎてしばらくして東の空に朝日を見た。朝日を見るのはもう何度目だろうか。早寝早起きの身体にいい生活しかしていない。
この旅行も終盤戦に入った。心配した体調不良もなくむしろ体調はよくなっている。旅の力は恐ろしい。
*
僕は平泉に降りた。あの中尊寺を見に行くためだ…と思ったら意外に遠い。歩いて20分近くかかる。雪も結構有る。
僕はふもとまで歩いてからは気をつけて石段を上がった。北海道仕様の雪ぐつとはいえ滑るときは滑る。足元を見ることはむしろ大切だということを教わるものである。それでもぐいぐいとのぼり、「境内」にたどり着いた。
そして「さあ金色堂はどこだ」と探すのだが見つからない。
「金色堂は、建物の中に飾ってあるような仕掛けになっている。」
これが答えである。金色堂は写真で見るとさも大きいように見えるのだが、実際は確か僕の背丈よりも低い。百聞は一見にしかずである。もちろん、小さくは見えるが作るのに膨大な時間と手間がかかっているのは言う迄も無い。
雪で閉ざされた寺院というのは何ともいえない趣があった。しかし、おりたときに実は滑り止め用の便利な道具が無料で貸し出されていたことに気付いた。のぼるときに気付きたかったなあ。結構危なかったので。
*
胃腸の調子はよくなかった。結局もりそば7.5枚、1日で食べる分量を1回で食べてしまったのだからしょうがない。トイレは午前中だけで3度はいっただろう。朝食はゼリーで昼食はお汁粉しかのどが通らなかった。
食べたのだからおなかが減らない。平泉から一ノ関へ下った。運悪く普通列車の接続がなく1時間近く待たされるハメになったのだけど、そこでお昼ご飯を買う気力がわかない。どうも、夕飯まで水分以外は口にしない方がよさそうだ。
どうも眠かったのか、一ノ関から小牛田までの記憶がない。僕は「おうしだ」なんて読むと思っていたのだが、「こごた」と小牛田は読むらしい。読めない駅名これからどんどん出てくるのだろう。僕は、そんなことを思いながら松島へ移動した。
松島は時間がなかったあげくに松島駅に降りてしまったために、松島が見える海岸まで延々と歩かなくてはならなかった。雪はもうなかったのだが、風が吹くのでやたらと寒かった。それでも青々とした海は東日本大震災の記憶を薄れさせるような美しさがあった。だからこそ自然は美しくも恐ろしくもあるのだろう。土産物をみて早々に引き上げた。
*
この日の宿は鳴子温泉だ。小牛田に戻った僕は陸羽東線に乗った。やがてあたりは暗くなった。降り立った頃には真っ暗で、街灯の明かりから再び雪が積もっているということだけはわかった。
この日の宿のご主人は気さくな人だ。そして、「フラグ」が立ちそうなことをどんどん言う。
「旅にはピンチがつきものだ」
「もう一度くらいあるといいんじゃないか」
おいおい何を言い出すんだこの人と思うのだけど、
「なんかあったら車で迎えに行ってあげる」
そういう温かさのある人だった。なかなかに面白い。
車で隣町の別の温泉などという温かいお誘いはさすがに時間の関係でお断りして近くの食堂へ行った。1日ぶりのまともな食事はチキンカレーだった。
2014年12月27日・鳴子温泉→東京
温泉につかって、ぐっすりと眠った。朝だ。窓の外には雪景色が広がり室内は昔の宿のため室温0度だ。完璧である。
朝食だけは宿から用意されたものをいただくことにしていた。少々値は張るが田沢湖の時とこの日だけだからよしとする。メニューは焼き魚の和定食といたって普通。だけど、宿で食べるなおかつ手作のものをいただくというのは格別なものがある。
またひとりで食べるというのは寂しいから嫌だとトイレで食べるような人もいるとは聞くが味わって自分のペースで食べるなら絶対にこのほうがいい。相手がいると相手の話を聞く、相手の表情やペースにあわせる必要が出てくる。半分くらいは味を楽しむではなくて人間関係に注意がいってしまう。
朝食を食べ終えるとすぐにリュックサックを背負う。なにしろ列車の時間が迫っている。急いで駅へ向かった。駅に着くとものの数分で列車がきた。
*
この旅行も11日目である。既に旅行のペースに体調があってきている。よく眠れるし、いつもより食欲もある。厳しかった雪エリアをこれで抜けてあとは東京へ下るだけである。そう思うと気が楽だった。
午前9時台に小牛田へ戻ってからは普通列車を乗り換えての仙台。ここで10時くらい。仙台からは快速で福島へ下る。福島までが1時間ちょっとというのは初めて知って驚いた。福島までは峠を越えるのだが、峠を越えたときに福島を見下ろす車窓に出会った。見事な広がりで素晴らしかった。福島まではあっという間だった。
問題はそのあとである。福島まで来たならば(っていってももうお昼くらいにはなっていたのだが)関東へ下るのも早いだろうと思ったのだが、郡山までまず時間がかかる。1時間はみなければいけない。そのあと黒磯行きだ。これもまた1時間は余裕でかかる。
今度こそと思ったら今度は宇都宮までまたまた時間がかかる。わかってはいたが「長い」まあ距離的には仙台から東京って名古屋から東京行くのと大して変わらないのだからしょうがない。
*
宇都宮まで下ればもう夕方だ。15両編成の電車に出会うと「いよいよ東京だなあ」と感じる。乗客も一気に増えた。一駅停車するごとにどんどん乗客が増えて座席が埋まり立ち席が出始める。そうすると、大宮が近づいてくる。
大宮まで来るとほとんど東京だ。地元の人間からすると「違う」だけど、東京近辺に住んだことのない人間からすれば、大宮~大船くらいは東京という感覚になってしまう。ともかく大都会に入った列車は常に満員にちかい。浦和・赤羽と降りていくと、東京都に入った。何度も足を運んでいるが、相変わらず超都会だ。日が暮れてネオンサインが窓からひっきりなしにそのまぶしい光を投じてくる。本当に夜のない町だ。
僕は札幌からの2000キロ近い旅の果てに、東京へ着いた。
2014年12月28日・東京→名古屋
昨晩は、古くからの馴染みに会っていた。昔から変わったところ、そして昔から変わらないこと。人間は変わりゆくものだという。でも、やっぱり変わらないところもある。
笑いに包まれた一晩は終わり、僕は再び東京から列車に乗っていた。いよいよ、自分の実家に戻るのである。あとは、何度か通った道。緊張というものはもうどこにもなかった。どちらかというと、この旅行を無事に終えられたという安堵感とある種の達成感に満たされていた。
冬は確かに寒くて厳しい季節だ。しかし、そうであるからこそ、旅先で会う人の温かさはより目の前に浮かび上がってくるように思うのである。
*
熱海から先は、いよいよJR東海の区間だ。急に4両や6両といった短さになるため、乗客が多い。そのうえ、トイレがないので場合によっては途中で降りないといけない。とはいえ、僕はそのときなんとか座っていただろうか。富士山も見たようにも思う。実家に帰る時間を予めいってある。時刻表をめくるとちょっとまずい。僕は名古屋への道を在来線でのんびりと急いだ。
豊橋に着いたら、日が暮れてしまっていた。いよいよまずい。どこで降りたら早く帰れるのだろう。2000キロは走ったであろう長旅への感慨はすっかり忘れてしまい、僕は慌ててその方策を思案するのであった。
2015年1月
結局この旅行で何本の列車に乗ったのだろう。あとで思い起こしてみると最低55本の列車に合計70時間くらいは乗っているみたいだ。70時間は3日が72時間なのでそれに匹敵するレベルだ。これだけ長い時間乗っていたのは初めてだった。
新年は、湖西線から北陸線に入った。金沢で1泊して、翌早朝に雪が踏み固まってつるつるになった路面を兼六園まで往復した。夜明け前の兼六園は本当に静かだった。そのあと今は三セクになっている区間に入り富山・黒部と進んだ。ここで宇奈月温泉により道をした。途中から険しい山に分け入って車窓には迫力があった。
再び東へ進んで、直江津へ出た。途中夕日が有名なスポットにも降りたのだけど、この日は天気が悪かったのである。全く話にならなかった。直江津では、確かに681系のはくたかや189系も目撃しているはずなのだが、写真が見つからない。第一コンデジのバッテリーが切れていたのだからもうお手上げ状態だった。
暗闇の中僕は、快速に乗った。これが確か485系だったのである。2017年頃に引退の告知を見た気がするのだが、この時はまだばりばり現役だった。特急並みの椅子に座って、くつろぐことが出来た。
ついた先は、新潟だった。地元のコシヒカリで夕飯を食べた。翌朝一番列車で今度は羽越線に入った。徐々に空が白んで、僕は何度目かの「夜明け」を迎えた。
眠くてたまにうとうとしていが、日本海の眺めは素晴らしい。昼前に秋田について、僕は奥羽線をまっすぐ青森へ向かった。青森で夕飯を買って(確かとんかつ弁当)そのまま蟹田まで普通列車そこから789系のスーパー白鳥に乗り継いで、再び北海道へ渡った。渡ったら既に夜になっていて、木古内から普通列車に乗り換えて夕飯を食べながら函館に着いた。
*
1月6日の朝。僕は函館にいた。海鮮丼がうまいらしいと聞いて函館の町を歩いた。とはいっても駅の近くに市場があり、そこにいけば食べられる。早速オーダーしておなかいっぱいになった。
この日、青春18きっぷが最後の1回分になった。これで札幌に行けばゴールである。というわけで僕は安心して函館からの普通列車に乗って、思いつきで山線経由の普通列車に長万部で乗り継いだ。
しかし、これが誤算だった。対向列車が鹿をひいた上に巻き込んだ。そのため、保線作業員が現場に移動して処置をしないといけないという。なんと2時間近くも缶詰になったのである。刻一刻と過ぎていく時間、青春18きっぷは札幌では24時を過ぎた最初の停車駅までしか乗れない。率直に「ヤバい」事態だった。
2015年2月・網走
僕は再び網走に来ていた。流氷は空振りしたが、監獄博物館をもう一度訪れて刑務所飯を食べていた。ダイエットにも日頃の悪い行いを振り返るにも最適なバランスと味である。そして、帰りはキハ183初期型のオホーツクだ。
結局、小樽で臨時の普通列車どころか1本前の普通列車に乗れたおかげで、あの日札幌には青春18きっぷでたどり着くことが出来た。完全運に救われたといえる。北海道を1周して本州へそして自分の故郷まで駆け抜ける旅から1ヶ月たっていた。
「次の旅行」、去年の暮れにはそんなアイデアはどこにもなかった。でも、不思議である。旅行中に、旅行を終えると自然と「次のアイデア」が浮かぶのである。悪いことずくめだった中で見つけた小さいけれど大切な幸せだった。
一冬の旅の終わりは、その後3年にわたって続く鉄道の旅のはじまりを知らせる笛の音だった。
次は夏だなあ、全国をまわろうか。僕は早速時刻表の路線図を眺めていた。
(つづく)
しらさぎのコメント保管庫
@7M_shirasagiのなんかまとめてコメントするための雑記帳です。 不定期にアンケートコラムや鉄道旅行の連載を行います。
0コメント